雑記(2):防災計画(防災行政)の特殊性とは,2010.02.09.

     わが国の防災計画(防災行政)を論じる上で,こと巨大広域災害を扱う限り,以下に示す6つの特殊性を考慮せねばならないと筆者は考えている.
     はじめに「巨大災害による被害がもたらす外部性の大きさ」である.この性質は災害被害とその対策効果が影響を及ぼす利害関係者が複数存在することを意味する.同時にこれは技術的評価の限界ともなることが多い.例えば「耐震補強工事に対して金銭的な補助を行う」という制度についてその効果(便益)を正しく計測するためには,発生する地震の大きさや倒壊家屋数,死者数,負傷者数,さらには震災後の経済・金融システムの安定化をはかり迅速な復興を促すなどの外部不経済などを精度よく把握する必要がある.しかし,その計量はきわめて困難である.また住宅や経済活動そのものは基本的に競合性や排除性が約束される私的財としての性格を持つ.しかし,これらが外部性や集合性,そして時空間的な波及性を伴って変化を遂げる場合,それがもつ価値財としての特徴は無視できないものとなろう.さらに問題にかかわる主体が複数の場合,個々の利害関係者の利害が相反し,合意形成を困難にすることが広く知られている.例えば,十分な耐震性能が確保されていない住宅の耐震補強を金銭的助成などによって推進することは,所有者の人命安全性を確保するだけではなく,建物倒壊に伴う地震火災の発生や道路閉塞を防ぎ,また地震によって住宅が倒壊した際の復旧費用を低減するという意味でも意義は大きい.しかし,一方で住宅は個人資産であるため,私的財に対する公的資金の投入が私有財産制に反するとも解釈されうる.一般に災害からの復旧・復興に対しては現在のところ,災害の発生が巨大な不確実性を伴う限りは,必ずしも国家がその責任を全面的に負う義務は無いものと一般に考えられており,わが国の法律では原則として被災者の個人的損失を行政は補償しない.これは自力復興の原則と呼ばれるが,ひとたびこの原則が崩れると手厚い補償を受け取った人々もしくはその制度の存在そのものが準拠集団となって,地震保険などを含めた事前対策に対するモラルハザードの発生が懸念されることによる.この立場からみると,自然災害による被害に対してはそのモラルハザードを防ぐ意味でも自力復興の原則の遵守が望ましいと考えられよう.しかし一方で,迅速な復旧・復興を促し,社会的・国家的な損失を可能な限り減じうるという立場からは,被災者生活再建支援法や中小企業対策などの制度は議論に値するものとなる.この制度を所与のものとする場合,その行政支出を減じることは公共性を伴う外部便益とみなされよう.さらに住宅をある種の価値財として見なしうるならば,例えば耐震補強工事に関する金銭的助成は公共的分野と考えることができ,市場経済を活用するという立場からも議論の余地をもつものとなる.しかし,これが完全に正当化されると,上記と同様のモラルハザードが長期的な問題として浮かび上がることになる.どちらにせよ防災計画(政策)の評価は,その外部性をどの程度明らかにし,どの程度許容するかで真逆の結論ともなりえ,加えて少なくない利害関係者を巻き込むゆえその解釈は困難となることが多い.
     2つ目に「防災性能が市場で十分に評価されず,市場が未成熟である点」が挙げられる.この性質は,個人が希求する防災性能は多くの場合,他の財と異なり市場メカニズムに反映されにくいということを意味する.一般に,厚生経済学の基本定理(パレート最適)は,市場メカニズムの追求は効率的な資源配分を可能にするものと知られている.したがって住宅などの財が市場に流通する財である以上,市場メカニズムを防災政策の根幹とすることは推奨されるべきで,これが整っていれば行政による自助への介入は原則的に必要ない.ただしこれは,社会が効率的な資源配分のみを目標としていること,厚生経済学の基本定理が満たされることが前提条件となる.前者については,一般に都市の安全性を扱ううえでパレート最適は唯一の目標ではないとしてよいであろう.というのも,市場メカニズムが約束する社会厚生が真の社会厚生に近づくためには,分配の公平性の問題を抜きにしてもなお,意思決定者による「客観的に正しい」行動が前提条件となる.そのためには防災性能はその事実が正しく周知され,認識され,そして各人の主観的評価は,科学技術の限界はあるにせよ,規範的に客観的合理性をもつことが社会的に合意されるべきである.しかしながら,災害現象の不確実性や情報の非対称性によって,意思決定者の行動と客観的に正しいと思われる行動の間に生じる乖離は,現実にはきわめて大きい.これは,現時点では防災性能について市場メカニズムがもたらす判断はマクロ的な防災計画の目標と合致しないことを意味する.また後者について厚生経済学の基本定理が成り立つためには,市場の普遍性,完全競争の条件,凸環境の条件,安定性の条件,共同消費性や非排除性がないことの全てが満たされる必要があり,そうでない場合は資源の最適配分は達成されず市場の失敗が発生することが知られている.言うまでもなく防災対策においてこれらの前提条件を満たすことは簡単ではない.したがって少なくとも現在の状況下では,防災計画の方針は市場メカニズムに依拠するのみならず,これらを根幹としつつ,補完的な行政介入によって社会の安全性を確保する根拠ある取り組みが必要となる(リバタリアン・パターナリズム).この市場メカニズムに安易に依拠できないという性質は規範的視点と技術的視点の間に混同を生じさせる十分な要因となりうる.現実にも補完的な行政介入として,市街地の安全性を改善するために行政が助成や罰金,規制という視覚化しやすい形で経済主体間の効率配分を達成する試みはなされている.しかし,それが客観的・科学的な根拠を伴って行われている事は数少なく,それゆえ公平性その他の規範的視点から防災投資に関する計画案はますますの追求を免れえないものとなってしまっている.
     3つ目は「災害による被害が多くの場合人的損害をもたらすという点」である.この性質は,災害による被害が人的損失という形で可視化され易いという特徴であり,特に復興過程においてこの特徴は大きな影響を持つ.そもそも,防災に限らず都市計画の政策的意義は,よりよい都市社会の実現である.ところが社会には防災に限らず多様な問題が堆積し,防災性能を極限まで高めればよい社会になるとは必ずしも言えないばかりか,防災投資が経済的に見合わないケースも数多い.それゆえ,防災計画は防災性能とその他の「都市の性能」を比較・検討しうる理論的基盤が背後に備わるべきと考えられる.ただし,問題は防災性能のよしあしが,人的被害に直接的に繋がりうるという点であり,この比較・検討のプロセスを追求すれば,生命至上主義的な考え方や予期せぬ災害によって被害を受けた人々の基本的人権を遵守するという立場と対立せざるを得ないのは,自然なことである.すなわち防災計画の議論は,生命や基本的人権の客観的評価という極めて難しい技術的課題を背後に有し,その結論はいかなるものであっても,規範的な立場からの反論を免れえない.もちろん,この立場が過度なものになると,「タバコへの重税」や「耐震補強をしない老朽住宅について重い懲罰的施策を与える」というパターナリスティックな行政介入はドグマ的に正当化されることになる.いずれにせよ,防災計画の評価は,私的な対策を怠っていた個人に対する公の救済範囲の議論に帰着することは間違いない.とすればその論点は,どの程度の救済が認められるかであろう.このためには議論の前提として規範的な立場のみならず,困難といえどもこれらの計画を技術的視点から捉えなおし,必要に応じてJ. S. ミルが「自由論」で言及した加害(危害)原理(harm principle),つまり個人の行動の自由がもたらす外部不経済を明らかにするなど,それらの客観的な基準を明確にする必要がある.
     4つ目は「災害による被害とその対策に伴う強い不確実性」である.災害現象は多くの場合,その不確実性の高さ(特に確率の小ささや被害の大きさ)を特徴とする.それゆえ,防災計画の評価は1.不確実性そのものの問題,2.期待値の適切な解釈,という2つの課題を克服せねばならない.一般に現代の技術水準や都市・社会システムのもとでは,災害の甚大な被害を完全に取り除くことは不可能である.被害が確定的に発生するならばともかく,確率的事象としてみなされる場合,その意思決定は確率が小さければ小さいほど,また被害が大きければ大きいほど困難になる.生起確率が知られている「リスク」の概念は標準偏差でその危険性の度合いを測ることが多いが,防災計画についてもこれは同様であろう.これは経済外部性,時空間的波及性,集合性とはまた別の意味で問題となるが,意思決定者のリスクに対する主観的評価など先に示した各特徴とも相互に繋がるものであり,その意味ではこの性質こそが防災計画の評価を困難にする最大の要因としても過言ではない.もちろんこの特徴は,それ以外にも事前対策に関するステークホルダーの少なさなどの原因となる.他方で,発生確率の小ささと甚大な被害を解決する方法のひとつが,期待値という概念である.しかし,この概念も万能なものではない.地震発生確率の低いとみられていた地域で近年連続して地震が発生するなど,高度な不確実性を前提とする防災計画においては,現代の技術水準のもとで期待値がどれだけの計画的意義を有するかが曖昧であり,これらを妥当に評価することがきわめて難しいからである.もちろん,保険のフィールドで用いられる地震PML(Probable Maximum Loss)なども期待値にかわる指標のひとつといえる.しかし,これがどんなにリスク管理や不動産の証券化など頻繁に用いられている概念であっても,抜本的に上記の問題を解決したものではない.それゆえ,期待値の解釈そのものについてもある程度の規範的判断が必要となるだろう.
     5つ目は「災害対策に関する曖昧な役割分担」である.一般に,災害対応の役割分担として自助・共助・公助の概念が広く知られているが,この概念はそれぞれの実行可能性や限界を相対的に評価して役割分担がなされるものでは必ずしもなく,公助による災害対応は限界があるため自助・共助による取り組みを進めよう,というスローガンに終始してしまう場合も少なくない.というのも現在のところ,阪神・淡路大震災で自力・家族・隣人による救助がほとんどであったという「根拠」によって,公助の限界が頻繁に指摘され,自助・共助中心の取り組みが各地で数多く行われているという現状がある.ところがこれらの取り組みは,十分に自助・共助の限界と妥当性を検証して行われるものが少なく,こられを過大評価している事例も多いものと考えられる.ところで,阪神・淡路大震災以降,耐震補強工事推進の進捗が鈍いと言われて久しいが,これは都市防災の対策主体が阪神・淡路以降抜本的に変わったことが理由のひとつと考えられる.つまり,これまでの都市防災対策は,避難場所の確保や延焼遮断帯の整備等,主に行政が主体となって行われるものであった.一方,耐震補強や建て替えなどの対策は,住民が中心となり,それを行政が支援するといった形で行われるものである.したがって,行政の行う防災対策(つまり耐震補強への助成等)を評価するためには,行動論やマーケティング的手法から,個人の防災対策に関する行動を紐解き,予測し,適切な刺激を与えうる政策を選択することが重要となる.しかし,このような問題意識をもった研究は(筆者の論文をはじめとした一部のもの以外)ほとんど行われておらず,現場では相変わらず,非科学的な根拠のもとで助成メニュー等が決められていることが多い.これは,十分な自助・共助・公助の役割分担ができていないものと形容されよう.この傾向は事前対策のみならず初期消火など直後対応についても同様である.いずれにせよ今後はこれらの問題意識をもとにして,防災対策および災害時のガバナンスを再検討する必要性があるのではないかと考える.
     最後に「防災投資の結果を測る尺度の多様性」である.人的被害の貨幣換算の困難性が解決してもなお,経済的効率性の追求が防災政策における唯一の尺度にはならないという点である.先の例と同じく,行政を主体として経済的効率性から考えた耐震補強工事への助成を考える.ひとたび災害が発生すれば被災者生活再建支援法による生活再建のための現金支給,仮設住宅建設費用,がれき撤去作業費など莫大な支出がその被害量に応じて必要とされ,この外部性は災害の脆弱性に応じて著しく増減することは自明である.したがって事前対策の程度は事後に発生するこれら支出の多寡に影響するとみてよく,結果として事前の対策に対して投入する資金と事後に支出するであろう資金にトレードオフの関係が認められる.すなわち先述の通り,個人住宅の耐震補強工事に行政が金銭的助成を行うことは「人的被害の軽減」だけでなく事後の行政支出にもおおきく影響を及ぼすと考えられ,災害の規模や地域によってはその金銭的助成により事前対策と事後の支援にかかる資金の総和を減ずることができる.最大多数の最大幸福を法学の基礎としたBenthamの功利主義や厚生経済学を著したPigouの考えを踏襲するならば,耐震補強工事に対する助成はこれにより正当化されよう.より詳しく論じると,一般に外部不経済がある場合,生産量は社会に望ましい水準を満たさない.そのため多くの場合は,これに対して合併などの私的な内部化や交渉,或いは司法的解決が試みられる.他方で,公がこれらを解決する手段として経済的手法による内部化,規制的手法,自主規制やコミットメントなどの自主的アプローチ,技術開発による問題解決,情報提供や教育があり,特に前者は市場原理により外部不経済を解決する取り組みである.これは当事者間の交渉を公的に行うもので,行政が社会的限界費用を考慮して税金や補助金により外部性の内部化を目指すものである.これは外部不経済を完全に解決するものでは必ずしもないが,Coaseの定理により社会厚生の最適化は期待される.またこのとき,税金と行政による補助金は同じ効果を約束することが知られている.すなわち,地震現象に起因する外部不経済を潜在的に持つ主体が社会に補償金を支払う場合(Pigou税)も,反対に社会が外部不経済の発生者にお金を払って外部不経済の解決に努める場合(Pigou的補助金)も同様にパレート効率性が保たれるわけである.ただしこの両者は資源配分上では同じ結果をもたらすが,所得分配という点で大きく異なる.ところで一般に,行政がPigou税とPigou的補助金のどちらを選択するかはその権利に依存するものと考えられている.例えば環境問題について考えると,この権利(環境権)は個人の環境利益を享受する権利としての面と地域社会の共同利益としての環境享有権を守る権利としての二面性が言及されており,この権利によって外部不経済を排出する主体は,社会に対しPigou税が課せられる.他方で耐震補強工事への助成については,既存不適格建築物が建築基準法によりその存在は認められていることが重要となる.つまりその住宅で外部不経済を有する権利は,後ろ向きに認められているのである.よってこれについては,Pigou的補助金による外部不経済の内生化が正当化される.Coaseは英国の隣人訴訟を例に,被害は当事者間がその活動を継続することから生じた費用と主張し,加害者こそが責められるべきという因襲的法律学を否定した.それに従えば耐震性の不足によって生じた負の外部不経済は,既存不適格建築物に住み続けた居住者のみならず,憲法を遵守し,復旧・復興に関する支援金を給付する行政(広くいえば社会)にも責任の所在があろう.したがって,復旧・復興に関する支援金の妥当性はさておきこれらが既に存在し,既存不適格建築物の存在が法制度的に認められている以上,彼らにのみPigou税を課して外部性の解消を目指すという取り組みは必ずしも正当な試みではない.経済的効率性を唯一の評価軸とする場合,耐震補強工事への政策介入の是非については以上のように見通しの良い方針が得られる.ただしこの結論は計画対象間の水平的公平性を考慮していないこと,そしてそもそも防災政策が何の目的を持って行われるかについての議論を捨象している.防災計画の例によらず,公平性の問題については価値財としての特徴を重視するパターナリズムの立場,他の無数の計画案や公共投資によってその格差は相殺しあうと主張するヒックスの楽観主義,垂直的公平性は累進所得税や社会福祉政策で別途処理がなされているというマスグレイブ主義,手続き的公正の是非を主に論じる立場などさまざまな主義・主張が既に存在し,それぞれ一定の支持を得ている.つまり効率性とは異なり公平性はある程度の客観的な計量化を許すのみで,その基準には様々な概念が提唱されており,一義的に決定することは難しいと考えられる.防災政策の目的についての議論は更に重要である.防災政策の究極の目的が「人々の幸福への貢献」であることは異論のないところであろう.しかしその究極の目的をかなえる手段が防災計画のみであるはずもないことは明らかである.都市政策を対象に絞ってさえも,都市環境,都市交通,産業振興など人々の幸せに寄与する手段は多様性に富み,その効果を正確に計量することはきわめて困難である一方,我々は資源制約問題を免れることはできない.確かに,防災政策は他の手段に比べてともすれば,国民の基本的人権や生存権を保障するナショナルミニマム的な性格を多分に有することが多い.しかし防災政策という手段はあくまで手段であり,目的にはなりえない.それゆえ,収益・利潤という厳然たる活動規範を持たない防災計画の便益評価が困難なものになるのが当然の成り行きであるとしても,少なくとも目的についてはその混同を避ける意味でも常に明確にし,できる限り様々な基準で計画の効果を測る方法論が必要となろう.
     上記のように,おもいつくまま防災計画(防災行政)の特殊性を論じたが,これら踏まえて「どの程度までの防災投資が適切であるか」という疑問を整理するための戦略と戦術の確立が広く求められるものと考えられる.
    (2010.02.09)

    [追記]この頃はちょうど博士論文を書き上げた直後であり,実務的な研究・取り組みからやや離れている時期でした.また,このころは耐震補強工事や地震保険,消防防災のことばかり考えていました.東日本大震災を経て,もう一度再検討を試みたいと考えています.
    (2013.05.16)

 

 

 

 

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